アイドルオタクの絶望と到達点
僕はアイドルオタクだった。
もっと正確に言えば、、乃木坂46の橋本奈々未、井上小百合、桜井玲香、
paletの武田紗季、並木橋ハイスクールの小林奈々香が推しメンだった。
しかし、かつての希望や推しメンへの情熱は大西洋に浮かんでいた
アトランティス大陸と同じ様に失われてしまった。
果たして、私が認識していたアイドル象と彼女の存在が変わってしまったのか。
多分答えは「否」だ。
改めて、アイドルを推すことはある種の「絶望」が内包されていると思う。
アイドルを推すことの効用は千差万別であるが、一般的に言われることは
「擬似恋愛」ということである。
1000円を対価に10秒ほどの吹けば飛んで行きそうな「世界で一番幸せな時間」を提供してくる。
その時間の中で挨拶をし、顔を覚えられ、名前を覚えられ、あだ名で呼んだり、
うなじの匂いを嗅ぐことで完璧な世界を構築していたと思っていた。
しかし、ある時点から「もうこれ以上どこにもいけない」というポイントを
感じてしまった。
このアイドルに対しての握手会やチェキでのトークという極小の時間の中で、
自分が相手に語りうる言葉や推しが自分に対して伝えてる言葉の真贋や深さを
私はどうしても捉えることが出来なかった。
エヴァンゲリオンに於いて、A.Tフィールドが通常兵器では破れなかった
かのように。
「もうこれ以上どこにもいけない」ポイントに達した時
オタクはどうするのか。
2通りしかないと考える。
一つは「推しを変えること」
二つ目は「一般人を好きになるか」
後者は自殺みたいなもので、本当の他界だ。
このように考えるとアイドルオタクは100%推しを信じるか、
100%諦めるかでしか存在できないと思う。
その自分に対しての微笑みや言葉を100%真実として受け取るか、
100%嘘と感じ諦めながら、推し続けるかの
血を吐きながら続ける悲しいマラソンなのかもしれない。
それでも、アイドルを推すことは素晴らしい事である。
私たちが推している人(例えば橋本奈々未)は
形而上的な橋本奈々未であり、橋本奈々未を自分なりの解釈や思考
(村上春樹好き・八重歯・ショートカット・ノルウェイの森の緑・ピースが下手.etc...)
で定義付ける事が可能であるからである。
形而上的な橋本奈々未はウィトゲンシュタイン的に言えば究極的に「私的言語」であるから、これを他者に感じ、伝えることは不可能かもしれないが、
自分の言語で橋本奈々未を描写することが「推す」ことと同義かもしれない。
アイドルを推す意味は千差万別とは思うが、その中に一般的な人間関係以上の「絶望」
が内包されているとは感じずはいられない。
ひょっとしたら、アイドル業界は人間関係の「絶望」と「形而上的な女性」を
換金しているのかもしれない。
橋本奈々未の最後のライブに幸運に行って最後に見た橋本奈々未さんの
アンニュイなで素敵な笑顔からは一生逃れられない。