推しを巡る冒険

世界が存在するから認識できるのか。認識できるから世界が存在できるのか。

新卒8年働いた会社を辞める時、僕が語ること。 ver1.0

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2013年程ぱっとしない年は思い浮かばない。

 

2020年幻の東京オリンピックの開催が決定され、

アベノミクスで1ドル103円となり、

第三回WBCではサインミスで内川がアウトになり

日本代表は準決勝で散った。

 

そんなぱっとしない2013年に新卒で某広告代理店に入社した。

マルクス的に言えば資本家の「所有物」になったとも言える。

 

 

 

この企業に入って僕が得たことは大きく分けて3つだ

  1.  社会人として一般的なスキル
  2.  他人からお金をもらうということ
  3.  自分の限界と潮時

 

1.社会人として一般的なスキル

  転職活動を始めて、このスキルを身に着けた点は

本当に感謝するしかないと思った。

基本的な営業スキルはもちろん、顧客への考え方、

顧客の目標はなにか。その目標に向かって何をするかを

学ぶことが出来た点は、面接にも活かすことができた。

 

2.他人からお金をもらうということ

 学生から労働者となった際に一番観点が変わるのが、

お金の矢印だ。

22年間は基本的にはお金を支払うことで

サービスを受け生活をしてきた。

 

しかしながら、労働者として生活していくには

需要に合わせて何かしらの価値を創造しお金を

支払っていくことでしか、生活を維持できない。

 

高度資本主義社会においては、細分化された社会において

価値を創造していくことが求められるが、

チャップリンが1936年に「モダン・タイムス」で描いた様な

一労働者としては既存の巨大なシステムを支える

多くの歯車の一つとして振る舞うことが必要である。

 

それが、自分にとっては求人広告という存在であった。

企業と求職者を結ぶメディアの歯車として自分は働いた

マーケットの目的として。

企業にとってはあるときは、シフトを埋める採用として

あるときは、企業を成長させる採用として。

求職者にとっては、生存するために、生活するために、

あるいは人生を変えるために。

 

歯車を動かして、企業と求職者をマッチングすることで

僕はお金を顧客から頂いた。と思いたい。

出なければ、意味のない8年間、レーゾンデートル無き時間と

なってしまうからだ。

 

3.自分の限界と潮時

プロ野球選手の9割は自分の引き際を自分で決められない。

戦力外通告ということで、契約を続けられないからだ。

しかしながら、我々サラリーマンは定年までは基本的会社にいることが

まだ可能な世界に生きている。(終身雇用制度の崩壊に関しては棚上げしておく)

 

どちらが、幸せかは人それぞれだと思うが、

私は後者の方が圧倒的に不幸だと思う。

 

戦力外宣告という制度は能力不足・チームとしてあっていないことが客観的に分かる。

 

しかしながら、サラリーマンは例え能力が不足してようが、会社に

合っていない事があっても、労働法上守られている存在である。

とすれば、自分が腐っていくことを感じながらも、

蝕まれ続けられながらも、自分から声を上げられない限り、

変えられないのである。

 

私が新卒企業で働きながら、自己成長をし他社からお金をもらうことで

会社にある程度は貢献できたと思う。

しかしながら、自分に段々と出来ている壊疽みたないものを結局

克服することが出来なかった。

それは、他者への承認欲求であり、ルサンチマンであり、

自己への自信の喪失であった。

 

今の企業で長く成長して働くという世界線へのターニングポイントは

すでに通り過ぎってしまっていたし、

何より目標として、信頼していた上司が会社から去った後に

残ったのは、心のない歯車であった。

その歯車を無理やり動かしていたが、ある時に断末魔を上げて

芯から折れてしまった。もう一度回ることはなかった。

 

会社を辞めることを上司に伝えた時に「事前に相談ができなかったのか?」との

問いかけがあった。

自分の中でその言葉を処理するのに少し時間が掛かった。

信用できなかった自分の弱さと、信用させられる事が出来なかった上司の傲慢さが

その微妙な空間の中に漂った。

 

最後に

6月末で会社を辞めることが決まった後、引き続きをしながら

余生を過ごしている。

自分の未熟さや無駄な承認欲求で多くの人に迷惑を掛けての退職ともいえる。

しかしながら、自分の選んだ道を正解にするのは自分の行動のみである。

これからも僕は高度資本主義の歯車として世界を回し続けていくのであろう。

今度はもう少しだけ、自分らしく。