推しを巡る冒険

世界が存在するから認識できるのか。認識できるから世界が存在できるのか。

自由意志と「始めること」「続けること」「終えること」

 

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「私がカントのことを100%理解でもしたら、世界が終ってしまうわ。」

大学3年の時に飲み会でたまたま隣になった哲学科の女の子が

2杯目のビールを半分流し込みながら言った。

 

彼女は続けて、「カントによると人間の『自由意志』とは理性によって

どう正しく生きるべきかを決めて、それに従って行動すること。

それに伴う責任も負いながらね。」と語った。

 

僕が「それは刑法の責任論みたいな話?つまり、犯罪を犯さない期待可能性も

あったけど、あえて犯罪を起こした非難可能性があるから、処罰されるってこと」

と習ったばかりの刑法を持ち出したところ、

彼女は「そうかもね」と一言だけ呟いて残りのビールを飲み干した。

 

次の日にbook off で「純粋理性批判」を買って読んだが、15ページで

頭がパンクしそうで諦めた。

見分けが付かない可愛い双子の女の子が隣にいれば読み切ったかもしれない。

 

しかしながら、

僕が彼女の言葉の意味を理解するには10年近くの歳月が必要だった。

 

なぜ、10年近く前の飲み会での出来事を思い出したか。

それは、転職して算定を行っているときに彼女と同じ苗字(関西では普遍的だが、

関東では珍しい)を見かけたからだ。

 

転職する際に考えていたことと彼女の言葉が思わずリンクした。

 

『自由意志』

 

人が物事をするときには3パターンに分かれる

「始めること」「続けること」「終えること」

更にそれぞれに「自由意志で」「決定論的に」の

枕詞をつけることができる。

 

つまり

①「自由意志で始めること(exスポーツを始める」

②「決定論的に始めること(ex学校に入学する」

 

③「自由意志で続けること(ex自分のやりたい事のために資格勉強を続ける」

③「決定論的に続けること(ex入社した会社でクレームを出さないように仕事をする」

 

⑤「自由意志で終えること(ex次のキャリアのため転職する」

⑥「決定論的に終えること(ex大学を卒業する」の

計6種類存在する。

 

自分の人生を振り返った時に気付いたのが、

⑤の「自由意志で終えること」に関してはほとんど経験が無かった。

いつも自分の自由意志とは関係なく、それぞれのフェーズ(ここでいう小学校・中学校・高校・大学)で部活や専攻など自由意志で始めることは大好きであったが、

始めた故に「決定論的に終えること」つまり、先輩の卒業を待ったり、あるいは

自分が卒業するのを予報された雨に雨宿りするように待っていた。

 

転職してまだ3日目だが、改めて新卒で入った会社を「自由意志で終えること」を

選択した自分に驚いている。

 

これまでの自分であったなら、「決定論的に続けること」を消極的に選んでたと思う。

 

しかしながら、この自己の決定論的な世界に抵抗してみたいと思ったのは、

後30年この決定論に従うのは自分に対して無責任と感じたのも多々としてある。

また、社労士として知り合った方が輝いて働いてることも大きいと思う。

 

そして、一番大きいのがやはり、自分は「自由意志で始めること」が好きと言うことだ。

とりあえず、何かを始める。「アイドルと握手をしてみる」「SNSで人に会ってみる」「哲学書を読み漁る」「ダイエットしてみる」「社労士試験を受けてみる」

「可愛い子には連絡先を聞く」ということが好きということを改めて実感した。

 

正直、転職を考えた際は「会社に隕石が落ちて無くならないかな。」など

天文学的な確率を検討してみたが、それを決定論的に願うより自由意志で

自分の正しい・やりたいことを貫きたいという意志が勝った。

 

ここまで、自分勝手な話をしてきたが

①~⑥までで一番、大変なのは③の「自由意志で続けること」である。

「始めること」「終わること」は時間的には一瞬の出来事だ。

自由意志が存在する時間も一瞬で良い。

 

しかしながら、「自由意志で続けること」は毎日、いや毎秒

自分の力と精神をすり減らしながら、自分と向き合うことである。

これは僕の課題であり、これからの目標である。

 

今は、自由意志で終わらせ、始めることが出来た段階だ。

30歳になる年である。自分の自由意志を続けさせることで、

一人の人間として、正しく生きていきたい。

 

そうすれば、彼女の言う「世界の終わり」にも少しは近づけるかもしれない。