推しを巡る冒険

世界が存在するから認識できるのか。認識できるから世界が存在できるのか。

旭川にいったい何があるというんですか?

1

窓の外に目を向けると初夏の日差しが遠くにそびえる大雪山系の山々を優しく照らしていた。山頂には去りゆく季節を名残惜しむ様にまだ雪が残っていた。

僕はその北海道の美しい風景に見とれていた。

 

飛行機は大きく西へ旋回し、旭川空港に向かって高度を下げ、滑走路に接地すると心地よい

衝撃とともに懐かしい思い出が蘇ってきた。

 


僕は当時23歳で大学を卒業し社会人2年目に突入したばかりで、ある一人の女性のことを好きになっていた。正確には憧れといえるかも知れない。

 

彼女とは月に1回程度しか会うことが出来なかったが、僕にとっては十分過ぎる時間であった。

10年経った今でもその時の風景、匂い、会話、完璧だったその一瞬で永遠の時間を昨日の出来事の様に思い出すことができる。

特に彼女とは好きな作家が一緒だったこともあり、良くその作家について話し合うことが多かった。

 


この世界に完璧なものは無いと言われるが、彼女は僕の中では非の付け所のない完璧な存在であった。

しかしながら、僕と話す時に彼女はいつも僕では無く遠くの何かを見ていた

一度そのことを彼女に聞いてみたことがある。

彼女はショートカットの髪を器用にまとめながら「今の気持ちを伝える言葉が見つかないの。あと10年経てば伝えられるかもしれないけど、その時には意味が無いかもしれないね」と語った。

その彼女の言葉の真意をどうしても確かめたくなって、僕は彼女の生まれた地に行こうと決心した。場所は旭川であった。

僕がなぜそのような行動を起こしたかは今となっても分からないが、

はっきりと言えるの事は「どうしても旭川に行かなければならないのだ」という

思いが僕の心を占拠してしまったということだ。

 


翌週にはチケットを取り、旭川の街をくまなく歩いた。彼女の母校、彼女が通っていた喫茶店、本屋など彼女の影を感じるところは全て訪ねた。

最後旭川空港を発つ時に、少しだけ彼女の言っていたことが分かった気がした。

 


その後さりげなく彼女に旭川に旅行で行ったことを告げたが

村上春樹がいうより、ちゃんとした落とし穴だったでしょ」と彼女は

口を押えながら、微かにほほ笑んだ。

 


それ以来彼女には会っていない。

そうやって僕の20代は風の様に過ぎていった。

 


2

飛行機を降りると微かな初夏の匂いがした。

「やれやれ、また旭川か」とつぶやきそうになったのをぐっと堪えて歩き出した。

一応今回旭川に来た理由は”出張”である。

あくまでも1日目はまじめに仕事をするのだが、わざわざお客様にアポイントを

金曜日にしてもらい、土曜日に10年ぶりの旭川を回る算段である。


初日に順調に仕事を終わらせ、お客様から紹介された居酒屋で「サッポロクラシック」を新鮮なお刺身共に流し込むと全ての時間が止まったような気がした。

明日からの旅路を考えるとこのまま何もせず、朝一の便で東京に帰ったら、

10年前の思い出を壊すことなく、生きていけるとも思った。

余りにも完璧過ぎる思い出であるから、触れたくない自分ともう一度自分の

立っている位置を確かめたい自分がいた。

 


まあそれは明日の朝に考えればよいと2杯目のサッポロクラシック

顔を覆い隠す大きさのほっけを流し込んだ。

 

 

その後には締めにと「梅光軒」のラーメンを食べた。


このラーメンはメンマが特徴である。

そして一口食べると非常にすっきりとした飽きの来ないスープに仕上がっていて、旨味はそこまで強烈に利いているわけではなく、シンプルな醤油スープが表現されているようで、まさにどこか懐かしい…昔ながらの一杯といった味わいである。

 

幸福感を感じながら、ホテルへ帰るとなぜか、高揚感に包まれていた。

明日への期待か、それとも明日が来てほしくないからなのか。

 

ベッドに潜り込み時計を見ると2時20分を指していた。

次の瞬間には夢を見ていた。

 



朝目を覚ますと、心配していた二日酔いは訪れておらず、
爽やか目覚めを迎えた。
昨日の天気予報では降水確率が90%だったが、
テレビでは10%まで下がっていた。
その時「そうだ、再度旭川を巡って彼女の影を見つけるんだと」と確信した。

ちょうど駅前の観光案内所にレンタルサイクルがあると知り、
自転車を借りた。

ここから僕の彼女の影を巡る冒険が始まるのだ。
自転車のカラーは彼女が好きだった緑色だった。幸運過ぎるスタートに
僕の心は湧き上がった。


まず初めの目的地は彼女の通学で利用していた駅だ。
彼女が言うには駅ともいえない、ただのバス停みたいなものよと言っていた。

地図を見ると5㎞くらいであった。初夏の北海道には心地よい距離だ。
旭川市を分断している川に沿って自転車を漕ぐ。
河川敷の道をどんどん自転車のギアを上げ駆け抜けていく。

途中ではほとんど人とすれ違わず、この世界には自分しかいないと錯覚するほどだった。

30分ほどすると駅が見えてきた。
彼女の言うとおり「JR〇旭川駅」という看板が無ければ、それは自転車置き場に見えただろう。
駅内に入るとしんとしており、1~2時間に1本しかない時刻表が最後の時を待つように飾ってあった。
線路を見るとプラットホームと思われるアスファルトの道があり、そこで学生が一人電車を待っていた。
驚くほど殺風景な景色の中で、その学生がいることでなんとかバランスをとって駅が存在していた。

彼女は学生の時もこの線路とアスファルトしかない駅で、電車を待っていたのか。
その時は誰と、どんな気持ちで、どんなこと祈りながら、それは彼女しかしらない。

ただ、僕もここに立って見ると一つのことに気づいた。
それは大雪山に向かって伸びている線路がどこまでも伸びていることだ。
僕は近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、駅のベンチに座って次の電車が来るまで待ち続けた。
幸い10分程度で電車が来て、その学生を旭川駅まで送っていった。
電車が去ってしまった後、僕は一人ぼっちとなったが、不思議と孤独感はなく、自分の指がまだ
しっかり動くことを確認して、駅を後にした。


次に僕が向かったのは彼女が旭川を一番綺麗に見れる場所といっていたところだ。
ここからは10㎞程度ある。しかも田んぼの中の一本道だ。
改めて、ハンドルを強く握り、大雪山から降りてくる風に向かって走り出した。
懸命に自転車を漕いで30分ようやく彼女が言っていた植物園に到着した。

隣接してるカフェに入ると彼女がよくご褒美と言って食べていたイチゴのアイスを発見した。
恐らくは、ここのアイスも食べたであろうと思う。
僕も彼女と重ねるようにイチゴのアイスを食べた。
それはとても甘酸っぱい味で彼女と初めて会った夏の日を思い出した。
当時はお互い何を喋って良いか分からずに、はにかみあって、時間が過ぎていた
その時はお互いに人生の方向性が定まっていなかったと思う。
将来への淡い期待と薄い絶望の間をうまく、くぐりぬけていると思っていた。
それが大きな落とし穴であったとは気づかずに。

ふと目線をあげると、彼女が良く冬に身に着けていたニット帽が売られているのが目に入った。
思わず、触れてみると懐かしい暖かさに包まれた。

この植物園には小高い山があり、そこからの景色が彼女のいう絶景らしい。
僕は自転車で疲れた重い足を上げながら、山を登った。

「綺麗な景色を見るには体を動かさないとね」と
彼女は良く口癖のように言っていた。
本当にその通りだと思う。

山を登りきると360度の絶景が僕を待っていた。
南には大雪山がそろそろ雪の化粧を取ろうとしていて、
西には旭川の街並みは、休日の昼間に向けてほんのり賑やかさを増していた。
北には壁のような山脈が連なっており、これ以上人の進出をさせないかのように君臨していた。
東には田植え控えた水田が一面鏡のように青空を写していた。
余りにもこの光景が綺麗すぎて、僕は一歩も動けなかった。
気づいた時には周りから人が消えていた。

この景色を彼女と見れたら、宝物として心の奥底にカギを掛けて閉じ込めておきたい。

下山する際も名残惜しく、いつまでも山頂を眺めていた。


「腹が減っては戦ができない」
時間はすでに13時を回っている。朝から1時間以上自転車で爆走し、山を登っていたため、
流石にお昼ご飯を食べようと思った。

旭川といえば、旭川ラーメン。以前に彼女がよく、学校帰りに行った聞いたラーメン屋に行くとする。

市内に戻り、向かったのが「蜂屋」1947年創業。75年以上の歴史を誇る日本屈指の老舗「ラーメンの蜂屋」
お店に入ると香ばしい香りが漂う。これは絶対に美味しいお店と直感した。

醬油ラーメンを頼む。
一口スープを飲む
焦がしラードの香ばしいコクが独特でクセになる味わいだ
Wスープの風味と相まって、今までにないハーモニーが口いっぱいに広がった。

麺はストレートながら、スープにとても絡みするする入ってくるおいしさ。

しっかりとスープをまとった麺も旨い◎

あっという間にスープまで完食!
これは、旭川の寒い冬にもピッタリであった。


満腹になり街を歩きながら、改めてこの旅路を振り返った。
どれも彼女の影が垣間見えた場所だった。そしてまだ一つ訪れていないところを思い返した。

最後に向かうべきところはただ一つ彼女の母校だ。
彼女が青春の時間を過ごした3年間の影を見に行こう。

実は10年前にも彼女の母校を訪れている。
その時はあまりにも頭が混乱しており、はっきり覚えていない。
ただ、訪問した後は恍惚とした興奮だけが残った。

改めて、訪問すると自分の感情がどうなってしまうのか。
不安が駆け抜けるが、気づいた時には既に河川敷を通り、高校が目の前に迫っていた。

もう覚悟を決めるしかないと、最後の力を振り絞り、自転車のペダルを漕ぐ。

川の堤防まで立ちこぎで、たどり着くとそこにはフェンスで囲まれた校庭と4階建ての校舎が見えた。
「ここが、彼女を作り上げた所だ」と思うとなぜか、涙があふれてきた。
ここで、勉強をし、バスケットボール部のマネージャーもし、恋愛もし、そして東京の大学へと旅立ったのだ。
ここには僕の知らない彼女がいて、僕には一生味わうことができない感情があったのだ。

僕は校門近くまで歩き、目の前の小さな公園のベンチに腰を掛け、日が暮れるまで泣いた。
そんなに泣いたのは、彼女と別れてから初めてのことだった。日が傾くまで、泣いて僕は立ち上がり、自転車を漕いだ。
どこまで行けば、彼女の影に追いつけるのだろうか。
しかしながら、影は追いかければ追いかけるほど、遠く伸びていった。

はっと気づくと僕は旭川空港にいた。どうやって空港まで来たのか覚えていないが、帰るべき場所があるということはこういうことだろう。

 



帰りの飛行機に乗り込むとき、僕は深呼吸をした。
この匂い、温度、心の高まりを一生忘れないように。

機内で温かいコーヒーを飲んでいると、隣の60歳くらいの男性から声を掛けられた。
旭川へは仕事で?」僕はそのようなものだと答えた。
男性は「観光はしました?旭山動物園や博物館など色々ありますからね」と再度僕に尋ねた、
「観光はしましたが、そのようなところには言ってないですね」と口を開くと驚いた顔で「珍しい」と答えたきり、会話は闇の奥に消えていった。

羽田空港に到着した後に僕はもう一度深呼吸をした。