文書を書く事は救済か絶望か
「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎない」村上春樹氏の『風の詩聴け』で僕の最も好きな一文の一つである。
26歳になり、得るものより、失うことの方が多くなってきたと最近感じ始めた。
今、文章書くことで26年間で僕が形成してきた、自己を語ることで捨象し、
形成することで、自己療養に資す事を行いたい。
「google scholar」という論文検索サイトのトップには「巨人の肩の上に立つ」という
名文が刻まれている。
善悪の判断、正義とは、恋愛とは、ソクラテス以降の哲学者・科学者が議論に議論に重ねて思考方法であったり、結論らしきものはネットの海で検索や、紀伊國屋書店で
探せば出てくるものである。
僕が巨人の上で出来るのは、先人たちの偉業に対して経緯を払いつつ、今僕自身が
直面してる悩みや課題とリンクさせることしか出来ない。
ウィトゲンシュタイン的に言えば
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」かもしれないが、
後期のウィトゲンシュタインがしたように、「語りえぬもの」に対して、
如何に語るかを追求・思索し、自分が世界に負けず文章を書く事で、自分という
領域を押し広げ、世界を拡張し、奇跡的に自己が救われればと思う。
自己を形成している要素と形成していない要素どちらが認識しやすいといえば
後者であると思う。自己の形成に関しては「女ではない」「20歳ではない」等と
描写していた暁に自己の存在があると認識する。
我々が、言葉で語る時にはその存在と言葉が一致しているのである。
しかし、他人からみれば「髪が長い」「童顔」等の理由で一致しない場合がる。
自己の認識と他人の認識に関しては、隣の銀河ほどの隔たりがあることを理解しなければ、意思疎通は困難であろう。
しかし、困難であろうとしても、文章とその言語を用いてその「理解できない」
「理解してもらえない」という絶望を克服していきたい。