絶望の淵に触れる

オタクの異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて橋本奈々未を愛するようになったか

雨だから

昨日の関東地方は8月の台風並みの風と梅雨らしい雨が降っていた。

 

僕は雨が好きだ。

 

雨の日は特別な気持ちを低気圧から運んできてくれる。

それは、匂いやセンチメンタルな感情と共に

「非日常感」を奏でてくれる。

 

昨日ラジオを聞いていたら「雨だから」ってすれば、

なんでも出来るような気がするとアナウンサーが言っていた。

 

「雨だから、ご褒美にケーキを食べる」

「雨だから、どこにも寄らず帰る」

「雨だから、1日どこにも出かけない」

「雨だから、部屋を片付ける」

「雨だから、世界が平和になる」

「雨だから、トランプ大統領も空爆をする」

「雨だから、資本論を読む」

「雨だから、言葉の限界に絶望する」

「雨だから、金星の友達に会いにいく」

「雨だから、気になるあの子にLINEする」

「雨だから、東京タワーに階段で登る」

「雨だから、前髪を切る」

「雨だから、形而上学的な橋本奈々未を創造する」

etc...

雨の日は自分をいつも以上に非現実な世界へ

連れてってくれる気がした。

 

高校の時に片追いして女の子と帰り道相合傘をしたように。

アイドルオタクの絶望と到達点

僕はアイドルオタクだった。

 

もっと正確に言えば、、乃木坂46橋本奈々未井上小百合桜井玲香

paletの武田紗季、並木橋ハイスクールの小林奈々香が推しメンだった。

 

しかし、かつての希望や推しメンへの情熱は大西洋に浮かんでいた

アトランティス大陸と同じ様に失われてしまった。

 

果たして、私が認識していたアイドル象と彼女の存在が変わってしまったのか。

多分答えは「否」だ。

 

改めて、アイドルを推すことはある種の「絶望」が内包されていると思う。

 

アイドルを推すことの効用は千差万別であるが、一般的に言われることは

「擬似恋愛」ということである。

 

1000円を対価に10秒ほどの吹けば飛んで行きそうな「世界で一番幸せな時間」を提供してくる。

その時間の中で挨拶をし、顔を覚えられ、名前を覚えられ、あだ名で呼んだり、

うなじの匂いを嗅ぐことで完璧な世界を構築していたと思っていた。

 

しかし、ある時点から「もうこれ以上どこにもいけない」というポイントを

感じてしまった。

 

このアイドルに対しての握手会やチェキでのトークという極小の時間の中で、

自分が相手に語りうる言葉や推しが自分に対して伝えてる言葉の真贋や深さを

私はどうしても捉えることが出来なかった。

 

エヴァンゲリオンに於いて、A.Tフィールドが通常兵器では破れなかった

かのように。

 

「もうこれ以上どこにもいけない」ポイントに達した時

オタクはどうするのか。

2通りしかないと考える。

一つは「推しを変えること」

二つ目は「一般人を好きになるか」

前者は永久機関みたいなもので、永続性の依代である。

後者は自殺みたいなもので、本当の他界だ。

 

このように考えるとアイドルオタクは100%推しを信じるか、

100%諦めるかでしか存在できないと思う。

その自分に対しての微笑みや言葉を100%真実として受け取るか、

100%嘘と感じ諦めながら、推し続けるかの

血を吐きながら続ける悲しいマラソンなのかもしれない。

 

それでも、アイドルを推すことは素晴らしい事である。

私たちが推している人(例えば橋本奈々未)は

形而上的な橋本奈々未であり、橋本奈々未を自分なりの解釈や思考

村上春樹好き・八重歯・ショートカット・ノルウェイの森の緑・ピースが下手.etc...)

で定義付ける事が可能であるからである。

 

形而上的な橋本奈々未ウィトゲンシュタイン的に言えば究極的に「私的言語」であるから、これを他者に感じ、伝えることは不可能かもしれないが、

自分の言語で橋本奈々未を描写することが「推す」ことと同義かもしれない。

 

アイドルを推す意味は千差万別とは思うが、その中に一般的な人間関係以上の「絶望」

が内包されているとは感じずはいられない。

ひょっとしたら、アイドル業界は人間関係の「絶望」と「形而上的な女性」を

換金しているのかもしれない。

 

橋本奈々未の最後のライブに幸運に行って最後に見た橋本奈々未さんの

アンニュイなで素敵な笑顔からは一生逃れられない。

 

 

 

 

文書を書く事は救済か絶望か

「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎない」村上春樹氏の『風の詩聴け』で僕の最も好きな一文の一つである。

 

26歳になり、得るものより、失うことの方が多くなってきたと最近感じ始めた。

今、文章書くことで26年間で僕が形成してきた、自己を語ることで捨象し、

形成することで、自己療養に資す事を行いたい。

 

google scholar」という論文検索サイトのトップには「巨人の肩の上に立つ」という

名文が刻まれている。

 

善悪の判断、正義とは、恋愛とは、ソクラテス以降の哲学者・科学者が議論に議論に重ねて思考方法であったり、結論らしきものはネットの海で検索や、紀伊國屋書店

探せば出てくるものである。

僕が巨人の上で出来るのは、先人たちの偉業に対して経緯を払いつつ、今僕自身が

直面してる悩みや課題とリンクさせることしか出来ない。

 

ウィトゲンシュタイン的に言えば

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」かもしれないが、

後期のウィトゲンシュタインがしたように、「語りえぬもの」に対して、

如何に語るかを追求・思索し、自分が世界に負けず文章を書く事で、自分という

領域を押し広げ、世界を拡張し、奇跡的に自己が救われればと思う。

 

自己を形成している要素と形成していない要素どちらが認識しやすいといえば

後者であると思う。自己の形成に関しては「女ではない」「20歳ではない」等と

描写していた暁に自己の存在があると認識する。

我々が、言葉で語る時にはその存在と言葉が一致しているのである。

しかし、他人からみれば「髪が長い」「童顔」等の理由で一致しない場合がる。

自己の認識と他人の認識に関しては、隣の銀河ほどの隔たりがあることを理解しなければ、意思疎通は困難であろう。

 

しかし、困難であろうとしても、文章とその言語を用いてその「理解できない」

「理解してもらえない」という絶望を克服していきたい。